日本社会は,「以心伝心の社会」である。話さなくとも,なんとなく伝わる。それが当たり前だと私たちは思っている。しかし,世界から見るとそうではない。以心伝心は英語に訳しづらいという。だから,お前たち日本人はテレパシーで意思疎通を図っているのかと驚かれてしまう。
以心伝心の社会は「空気の支配」する社会である。このような社会では,場の空気を読むことがもっとも大切とされる。空気が読めないとKYな奴(空気が読めない)とレッテルが貼られる。そのため,さらに空気が人々の行動をじんわりと制約していく。日本人であれば,会議などにおいて,なんとなく言い出しにくい雰囲気を体験したことがあるはずだ。あれが空気の支配なのだ。話しは,飛ぶが,太平洋戦争を始める前に,米国と戦争をしたら日本の国力でどの程度もつのかという議論が官僚によりなされたことがあった。資源のない日本に計算上勝ち目がないことは明らかであった。しかし,事実を直視したものはいなかった。参加した者は場の空気を読み,なんとなく意思決定がなされてしまったのだ。このようなことは日常茶飯事である。空気が支配する社会においては,残念ながら言葉は重視されない。したがって,言葉による技術である法は重んじられることはない。法に書かれている言葉よりも空気が優先されるのだ。
私たち日本の伝統的な地域社会は、共同体志向で、同質性が強く,和を重んじてきた。伝統的な地域社会における人々は、その地域の慣習やしきたりに従うが、もともとその内容は明確ではなく流動的である。慣習やしきたりは言葉で表現されにくい。ゆえに、人は集団における自分の位置、他人の目,世間を気にする。そして,トラブルが生じた場合は、年長者などが、当事者の具体的な関係性等を考慮し、お互いのメンツをたてつつ柔軟に解決する。このような社会は「空気」が支配する社会である。このような社会で培われる人間性は,論理よりも人間関係に基づいて判断するものになりやすい。
しかし,伝統的な地域社会は,都市化と産業化の影響により、工業や商業を中心とする大規模な社会へ移行しつつあり,価値観の多様化する。その結果、あちらこちらで意見の対立が生じ,それがトラブルや社会の混乱をもたらす。
このような社会変化に伴い,空気の支配の内容は若干変化しつつあるが,依然として構造としての「空気の支配」そのものはなくなっていない。地域の人間関係が,職場の人間関係へ移行しただけである。また,マスコミやITの普及は,目に見える人間関係からバーチャルな関係へと移りつつある。そこでも,人々はお互いに空気を読もうとするのだが,バーチャルな分だけ空気が読み切れず不安定な状態に置かれる。このような状態に一定の社会不安が加わると,戦前のように,社会が集団暴走をしかねない。
多様な価値による混乱は望ましくないとして,復古的に道徳教育を強調する立場がある。道徳はもちろん重要だが,そもそも価値観の多様化は社会構造の変化に伴うものなので,心や道徳だけで,なんとかしようとしても無理がある。また,すでに価値観の多様化が進行しているため,何が道徳かについて全体の合意を得にくいだろう。
よく人々が思いやりをもてばよい住みよい社会になると理想論を語る人がいる。理想としてはそのとおりだ。しかし,人はそれほど賢くはない。実は,思いやる心には危険な面がある。知らず知らずのうちに,人は自分なりの理想を相手に押しつけてしまうからだ。押しつける方は善意であるのだが,押しつけられる方はたまったものではない。過去の歴史を見ると,正義や善意の名の下に行ったことがいかに残虐であったかがわかる。
現実的には,多様な価値観を持つ人々がいかに平和的に共存するかを考えなければならない。そこで,共存の枠組みとしての法が登場する。法は「様々な考え方や価値観を持ち、多様な生き方を求める人々が、お互いの存在を承認し、尊重しながら、ともに協力して生きていくことのできる社会」を目指している。法は,そのための技術である。私たちは,他人に同調を求める「空気の支配」する社会ではなく,一人ひとりが尊重される,「みんなとともに自分らしく生きることのできる社会」目指すべきである。そのためには,共存のための技術としての法の考え方について知ってもらわなければならない。従来は,法は法だから守れということが強調されてきたように思う。しかし,それはトートロジーである。なぜ法が正しいのかその根拠が問われなければならない。もし,不都合であればみんなで話し合って変えていく。それが民主主義社会である。弁護士会は,そのような法教育を学校において広めたいと考えている。